そんなに大したこと書いてないのに長い帰省日記

11/2 帰ってきた。イサナの人たちと工房でご飯を食べた。焼きそば。あやねちゃんのクラフトコーラがとてもおいしかった。あやねちゃんぽかった。美味しそうに飲むみんながみれたのもよかった。イサナのメニューになる日が来るのかなあ。飲めて嬉しかった。ありがとう。それから、なぎささんの計らいでようやくもえかさんのお菓子を食べることができた。このひはバナナのパウンドケーキと、紅玉のタルトタタン。しっとりふわふわしていて、ほんとうにおいしかった。心がおどるようだった。もえかさんのいろんなこと、ものに対する好きがつまったお菓子、ひとを幸せにするお菓子だった。うれしい。つぼみ、街に馴染むお店になるんだろうな。

11/3 母を駅まで送った。何十年ぶりかの同窓会のようで、久しぶりに着飾った母を、なんで写真を撮らなかったのか、ぼーっと生きてますね。でもちゃんと忘れないと思う。余裕があった頃にプレゼントしたガラスのネックレスをつけてくれた。余裕があった頃に贈り物をしていてよかったなあと思った。また贈り物ができるような生活を送れるように努力しようと思った。昼は好きなパン屋さんで好きなパンを買って食べた。夕方は祖父母の家にみかん狩りに。まだみかん色ではなかったので、12個だけ採った。甘酸っぱくておいしい。その場で1つ食べて、帰りの車で2つ食べて、帰宅して3つ食べた。

11/4  朝は8:24に起きて仕事に行く母を見送り少しして二度寝、目覚めたら10:36、三度寝。気づいたら12:36だった。下に降りたら父親がダイニングの椅子に座っていた。今日は休みらしい。昨日と同じパン屋にいき、昨日と同じパンを買ってきて、食べた。それから友人がいるというコーヒー屋に30分で着くところを道を間違えて50分くらいかけて向かった。そのあとは1年ぶりくらいにスズキ食堂車にいった。東京に住んでいるという話をしたら、20年前の東京をしてくださった。その当時の東京と、いまとでは気づけないことまで、本当にたくさんのことが変わっているんだろうな。沼垂にいき、すこしテラスを歩いた。イサナでチャイを淹れた。なぎささんともえかちゃんに美味しいと言ってもらえたことに安心した。カウンターに立ってイサナにいることに安心した自分もいたし、わたしはここを離れたんだということを実感した自分もいた。だからちょっと緊張もした。それから、なんでここを離れようとしたのかとか、チャイが好きなこととか、だれかじゃなくて、あなたのために作ることがすきなこととか、ああ、ああ、わたしいろんなこと忘れちゃってるよ・・となった。だから、ああ来れてよかった、来るタイミングだったんだとなった。イサナは魔法だなと思う。だからなぎささんは魔女だし、スタッフのみんなは魔女見習い。11/1に検査した結果が陰性だったというメールも来たので、久しぶりに朝市に立たせてもらうことになった。明日の妙高は、写真を撮りたいから早くでかけることを理由に一人で行くことにしたのに、もう日付をまたいで今日になってしまった。起きれないかもしれないけど、それはそれでいいなと思う。今週は自分を甘やかす週にしたからよいのだ。甘やかし過ぎだけど、甘やかすことを決めると決めないで甘えるとでは気持ちが違うんだね。ラクだね。

11/5 ここは、秋が深まる前に冬がきてしまうような感じがした。冬の音と匂いがした。久しぶりにお会いした人たちは変わらず温かくて安心した。はじめましてのひともみんな優しかった。これてよかった。

11/6 変わっていなくて、変わっていたし、変わっていて、変わっていなかった。変わっていなかったから、ここの人にすんなりなれて、変わっていたから、まっすぐは進めなかった。街も、人も変わっていくけど、私が一番変わったのかな。でも、私が一番変わっていないのかな。別に変わっていても、変わらなくても、どっちでもいいんだけども。夕方から長岡に。下々条の県道を走っていて、夕空にくじらをみた。懐かしい銀杏の木を周った。そのあとは、素敵な展示をみることができて、嬉しくなり誇らしくなった。自分たちの作品のことを考えたいと思った。大事にしようとなった。会うたびに活力をもらえるのは本当にありがたいことだなと思う。帰宅してカレーを食べて寝た。

11/7 朝早く起きて父母を見送り、みかん狩りに。おばあちゃんとたくさん話した。帰った時は笑わせたいと思う。

6月後半に一瞬だけ帰省した日を境に、びっくりするほどの酷暑が続いている。なにもできず、家にいる日が数日続いた。登録している映画サブスクリプションにミッションインポッシブルシリーズの配信が開始されていたので2周したあとにイーサンハント(トム・クルーズ)の出演作をみては寝るを繰り返していた。「やる」「する」「できる」は全部ちがう。できなくて、怖くて部屋から出られなかった。口や表情で嘘はつけても、作る/写すものは嘘がつけない。では嘘をつくを作るとするとき、どういうふうになるんだろう/するんだろう。スキャンして、入ったほこりを消す作業は嘘をつくことにも含まれるのだろうか。スポッティングも嘘であり、本音なのかもしれない。写真の編集加工も、嘘でもあり、その人が描きたい空想と本音なのだろうか。どこまでが嘘で、どこからが真実で、どこからが嘘で、どこまでが真実なのか、境がよくわからない世界になりつつあるのはとても恐ろしいことだと思う反面、人間の欲深さにはっとさせられる。待ち受け画面を、ジョン(Mr.&Mrs.Smith)にしてみた。ジョンがすごくカッコいいことを同居人に伝えたら、ブラピはライアンゴズリングのラインと彼女は言った。ブラットピットには華やかさがあるけど、ライアンゴズリングに華やかさがあるかと聞かれたらわたしはそうは思わないので、どうなんだろうと思いながらも作品によってはなんとなくわかる気もしなくないなと思ったりして、同居人の回答がいつも秀逸だなとは思った。そんな同居人は、先日カナディアンの友人と会ってからはいつになく溌溂としていてわたしは嬉しい。7月もやることが盛りだくさんである。今回の撮影はしんどかったけど、しんどかったからやれてよかった。スキャナーの接続の調子はめちゃくちゃわるいのをどうにかしたい。

6月2日

同じクラスの素敵な二人組をナンパする。ナンパはされるよりもするほうがずっと楽しい。きょうは又吉先生のお誕生日。

青山を彷徨っていたらたどり着いたテラスで本をひらくが、うまく読めずに帰る人たちの波を見ていた。誰かが読んでいる本について語るとき、目の前にある読まれた本とその人だけの記憶が紐づくとき、ことばは祈りに、つながりに、他には変えられないなにかになるのだと思う。その力にずっと救われてきたのだと、鞄に入れて持ってきたけれど読めずにいる本をながめながら思った。


6月3日

なにかをつくっているひとだけが何かを生み出しているわけではもちろんなくて、ほんとうはもっとその外にあると思われている、つまりは外なんかにはないもの。いろんな欠片や雰囲気みたいなものが、いつだってわたしたちの背中を押してくれていて、その存在を知っているからわたしはこの勝負からは絶対に降りてやらないぞ、と思う。あるひとがわたしたちに向けて放ってくれた「悔しい」がありがたくて大切で、わたしはいつか今日の夜のことをかならず書く。その一言がどんな風にわたしのこころを打ち続けているかを。


6月4日

佐藤亜紀『スウィングしなけりゃ意味がない』

佐藤さんって信じられないくらいセンスがいいのだと思う、小説の中にある場をつくるセンスが。痺れるセリフがぜんぶ極めて短くてずっとノれる。どういう風に言語化したいと思っているかといえば、〈見えているのにまだ触れたことがないそれ〉に、わたしはことばを介して触りたいのだ、と読んでいたら改めて気付く。


6月6日

働き始めたレストランの壁はところどころ小さく欠片が剥がれていて、剥がれた先の壁にはふるい英字新聞が貼ってある。元々こういう内装なのかどういうものなのか経緯はわからないが、それもいいよねと言って教えてくれたひとはドイツに8年間住んでいたという。どうでしたかと聞いたら、「自分は有色人種なのだと初めて知った」とだけ言った。今日はそれ以上は聞けなかった。


6月12日

李琴峰『ポラリスが降り注ぐ夜』から目が離せなくなってしまって歩きながら読んでみたけれどさすがに危ないので、信号の分岐点にある大きめの木の前で一編を読んだ。梅雨が通り過ぎて夏になった気持ちになったけれど蝉はまだ鳴いてなかった。鳴いていないほうがおかしいくらいの暑さだったのに。

わたしはこの作品をけっして美しいとは言わないと、自分に誓いながら帰った。


6月14日

日本橋で『リーマン・トリロジー』を見た。2年前に教えてもらってその時は見れなかったのだけれど、トニー賞ノミネートの関係で1週間限定でかかっているというのを聞いて見ることができた。

役者は3人だけ、約4時間の演劇映像。以前ロンドンで芝居を観たときに、第二幕の始まりで2階席から役者が登場し、お酒を飲みながら観ている客の飲み物を勝手に取って、勝手に飲んでいた光景を思い出した。あのきらめきと高揚感。目の前で見ること、がもつちからはどうしたって底知れない。昨年買った書籍の中でいちばん高かった本作の小説版をやっと読み始めようと思う。

23時近くに終わってシアターから出るとそこには三越、高島屋、それから聳え立ついくつもの金融機関。日本橋でしかかからなかったのはウォール街まではいかないとしてもここから見える景色がたしかに「資本主義」の縮図だからだろうか、そんなことを思いながら帰った。アメリカと東京。

たった3人の出演者、彼らは何にでもなる。子供、預言者、金持ち、街のひと、家族。何度も出てくるひとに、たった一度しか出てこないひとに。音響はピアノ一台だけ。音楽が4つめの登場人物だと途中のインタビューでピアニストがいっていて、ヒューマリティとシンプルさ。先にもあとにもこの作品でしかなし得ない劇体験だった。


6月16日

スーザン・ソンタグの『ローリング・ストーン』インタヴュー。アンナ・ハーレントのことを、それからジョーン・ディディオンのことを何度も思いながら読んだ。一言一言がいちばん深いところに刺さっていく。

となりの席のひとがアリ・スミス『両方になる』を読まれていて、彼女の『五月』という短編小説はわたしの世界をちいさなちからで全く変えてしまったんです、と話しかけようと思ったけれどやめた。いま思えば話しかけたらよかった。


6月20日

アンドレ・モーロワ『わたしの生活技術』を読んだら、ヘミングウェイの『移動祝祭日』を読まなければという気持ちになっている。夜みたライブで、カナメストーンの虜になる。


6月21日

いやな予感が的中して悔しい気持ちでいっぱいになる帰り道、歩きながらマックを食べた。単純なところはどこまでも単純なので、お腹が満たされて少し落ち着く。〈わかりづらさ〉を手放さないことは、別の種類のわかりやすさを必要とする。


6月25日

借りたままになっていたDVDをやっと見る。貸してくれたそのひとが出演者にそっくりの話し方であることに気付く。話し方は思っている以上に多くのことを語る。


6月28日

中島らも『今夜すべてのバーで』こういうひとのことを小粋というんだろう。このものがたりはアル中の視点で綴られるが、19世紀の上流社交界でも王族の日常だとしても、このひとの手にかかればこのひとの節になる。そういうのを文体と言うのだと思う。

朝起きて真っ先に本をひらくことができる日は、それから何が起ころうと喜びで満ちていると断言したい。


6月29日

学校が終わったあとに西新宿をとにかく歩いた。都庁の付近から見える高速道路に暑さもわすれて見入ってしまう。たまたま見つけた新栄堂という本屋さんで欲しかった村田沙耶香『信仰』と、穂村弘・堀本裕樹『短歌と俳句の五十番勝負』を買う。

そういえば受けさせていただいたインタビューで、はじめに製作をするようになったきっかけを聞いていただいているのにわたしの発言が問いに対して回答になってないよと愛咲子ちゃんに言われたのだけれど、ことばをやり始めたきっかけをよくよく考えれば堀本先生の句会に行ったことが事のはじまりである。どうしてかその時はそれが出てこなかった。

キャサリン・マンスフィールド『郊外のフェアリーテール 』読み込んでいると、リスペクトルの『星の時』を思ってしまう。マンスフィールドはウルフのライバル、リスペクトーるはブラジルのウルフという異名をそれぞれもつ。わたしはウルフの小説を読み終われたことがまだない。

ドドールもタリーズもいっぱいだったので仕方なく入ったマックの向かえの席で、高校生がテスト勉強をしている。かと思うと唐突に50円玉がきらい、という話が始まる。ゴスペラーズが流れている。愛ちゃんと呼ばれる先生はやさしいらしい。


4月28日

違反金を払いに郵便局へ。

それから今のところ最もすきなブックカバーの本屋さんへいき、ヤマシタトモコ『違国日記』の9巻、ルシア・ベルリン『すべての月、すべての年』をもってレジへ。

『違国日記』を探したけれど見つけられず定員さんに聞いたら、やっと出ましたよね。と言ってくれた。そう、やっと出たのだ。わたしはあなたたちのことをずっと待っていたのだと気付く。速攻ビニールをびりびり破いて読む。息を飲みながら。わたしはこの日記がどこへ辿り着くのか、あるいは辿り着かないのかをここから見届けたいと思う。

ルシア・ベルリンの新刊もそれはもう首を長くして長くして、待っていた。こんなにかっこよくて面白いものがたりを、誰ひとりやらなかった方法で鮮やかにうつくしく編んでいく作家を、彼女のほかには知らない。こころの中でよく話しかける数少ないひとりで、わたしはこの先も作品の中で彼女に出会い続けられるこの奇跡を、ほんとうに喜んでいる。

実家の自室の本棚に本を詰め込む作業をする。ここに置いていく本は今回のその次の引っ越しのときに、すべてもっていこうと思う。つまりは大量の本を保管できるところに次の次は住むということになる。そういうことを勝手に決めて思い込むことばかりは、ずっと得意だ。やっぱりどれも手放さなくてよかったと思いながら自分だけの棚をつくった。


4月29日

展示と引越し準備で今月はあんまり読めていなかった。そういう時ほどやる気が出てよく進んだりもするのだが今回はなんというか、全然だった。今頃になってぽつぽつ読めるようになっていてうかうかしていたこころが段々静まってきている。読書は思っている以上にたぶん、身体的な行為でもある。

佐藤正午『月の満ち欠け』そうだけはならないで、というほうへずんずんと進んでいき、読み終わった感想の一つめが「こわい」という小説だった。読書メーターの感想に「こういうことはたぶん、きっと、ある」と書いてからいつもは読まないけれど、ほかの人がどんな感想を抱いているのかを読んだ。すぐにやめた。


5月1日

とんでもなく面白そうなひとが書いたという面白そうな小説、を買う。なんというかちゃんと、いやちゃんとなんてしていなくてもいいのだけれどむしろちゃんとしていないのに成立しているもののほうが好みだったりもするのだが、作品全体に文体があるなと思う。また会いたいから連絡をしたら夜中なのにすぐにお返事が来ておそらく遠くないうちに会えるだろう、と思う。昔書いていたらしいブログがそれはもう長くてながくて、最高だなと思いながら少しだけ読む。面白いことを書けるというひとと、書いているその人が面白いこと、というのがあると思っていて今日知り合えたその人は後者である。ぶっちぎりに。

シャワーを浴びて浴室を出ると友人ふたりがもう眠っていて、誰にも聞かれていないラジオをひとりで少しだけ聴いてそれからわたしも眠った。


5月2日

中嶋らもの小説を買い、新幹線の車内で長田弘『すべてきみに宛てた手紙』

本を開いていてものすごく眠たくなるとき、意識が遠のいたその次の段階でバッと目が覚める瞬間がある。乗車して1時間経ったくらいの時にその瞬間がやってきて、そこからガガガと読んでいるともう、目の前で長田さんがわたしに語りかけているような思いに駆られ気持ちよかった。長田さんや若松さんのことばにはいつも普遍性が宿っていて、この身を安心してぜんぶ委ねてしまう。こういうスタンスは著者に寄りかかりすぎなのかもしれないが、わたしは自身を丸ごと委ねられる作家の存在にいつだってまもられている。


5月6日

ひろちゃんから借りているチョン・ソンラン『千個の青』

中盤の展開でもうこれは一気に読むしかない、と思ってぐぐぐ、と読んでいた。18歳の時にこころを奪われて以来、ずっとずっと特別な作品の一つである柴幸男さんの『わが星』という舞台のことを思った。根源的なものはみな、球体なのかもしれない。どういう偶然だろうか、ひろちゃんから手紙が届いていて彼女にしてはめずらしく縦書きだった。


5月13日

引っ越した街で初めて足を運んだ本屋さんは、ひらがなの店名の古書店だった。

ながいのに長さを感じさせない、小説で言う文体があるものというより、映画でいう速さと遅さがある小説を読みたくて膨大な棚を眺めたのだがどれとも目が合わなくて、店を出ようと思ったところで二冊目に取った写真集を買った。いつもは右手で抜き出すのに、滅多に使わない左手でそうっと取り出してみた作品だった。開いたページにこれだ、という作品が載っていて残りは家に着いたらひらこうと思って見なかった。岩波が出している日本の写真家シリーズ。


5月14日

古書店で筒井康隆とジェイムズ・ジョイスを手に入れて、もうひとつの本屋さんで保坂和志『プレーンソング』を買う。ルシア・ベルリン『すべての月、すべての月』に収録された作品のなかで初回読みで最もすきだった作品には驚いた。ひろちゃんが一番好きなお花と、それからカメラの話が出てきたから。この作品はわたしの生涯の1冊になった。

曲がるべき交差点に特別すきなお花が咲いていた。2本。愛咲子ちゃんがここが目印だね、と言った。


5月16日

ひろちゃんが電話口で最近本をよく読んでいることを話してくれて、ひろちゃんと愛咲子ちゃんと3人で過ごしたひびが始まって、それから本当に終わったんだと思った。

ひとと話すことは他の行為とは比べられない強度でわたしの心を鷲掴みにする。今日は石の話になってわたしはこの石という固有性についてよりも、道端で見ていた石を持って帰ると石の見え方が変わってしまうことがかなしかった話などをした。いくらでも石の話ができる人たちに出会えて、スパイシーで面白い時間だった。でもタバコの匂いがつくからあの喫茶店にはもういかない。


5月17日

もう会ったり会話をしたりすることができないかもしれないと思っていた友人と少しだけ通話した。


5月18日

ふたつ隣の駅まで歩いていき、目があった樋口一葉『たけくらべ』を買う。ブックカバーの巻き方が初めて見るやり方でかっこいいですねと言うと、店主さんが昔はこれが多かったんだよと教えてくれた。また歩いて行こうと思う。

映画『隔ててて』を観にいく。アフタートークに星野概念さんがいらっしゃっていて、毎回泣いてしまうと言っていたシーンがかわいすぎて自分のかわいらしい家族のことを思った。いま触れたいのは星野さんのやわらかさだと思って今日観に行ったのだけれど、ずっといたかったところとか痛くなりそうなところがほぐされて、ひとの力はすごいと思いながら歩いて帰った。


5月19日

中野サンプラザへ。こういう格好良さにたどり着くとは少し前まではいっさい思っていなかったけれど、今の自分が思っている格好よさのぜんぶが舞台上にはあった。


5月20日

はじめてコントライブを見たのだけれどやっぱりわたしは漫才が好きなんだと思いながら、でもほりぶんとかナカゴーとかダウ90000とかそういうひとのつくるおもろいものはこの先もどんどんと見たいし、かっこいいコント師はめちゃくちゃかっこいいしと思いながら、う大さんのブログ記事を読み漁っていた。


5月21日

家から一番近い図書館へ初めて向かってみる。ほんとうの今頃は下北沢でリーディング公演を観ているはずだったのだが、体調がすぐれなくて時間までに家から出ることができずに断念した。少し休憩したらよくなりあんまり家にいたくない気分だったので図書館までやってきて、何かを取り戻すかのように一心に色々読んだのだけれど忘れてしまっている。


5月22日

空港へ向かう道中も帰り道もずっと、保坂和志『カンバセーション・ピース』。友人が旅立った先はポーランドで、ポーランドの紙幣はズロチと言うらしい。次に空港へ来るときまでズロチのことを忘れずにいたい。保坂さんにかかると記憶と時間はこんな色をもつのかと思いながら、書かれている時間を自分が経験するような心持ちで読んでいる。


6月1日

学校へ向かうバスの中で、高山羽子『如何様』を。

ちょうど1年ほど前に手にいれてしばらく積んでいたが今日だった。すごく久しぶりに小説を読んだ気持ちになっているけれどそんなことはなくて、小説もそれ以外も変わらずに読んでいる。描かれている対象をそれとは言わずに語っていくさまが見事で、高山さんの『オブジェクタム』と『首里の馬』を読まなければと思う。このひとの文章はいくらでも読めるな、と言うひとはそうではないものとはどう違うのだろうと言うことを考えている。

あなたはどんなものに触れて、どんなことを考えて、どんなことを寂しがって、どんな風に喜んでいるのだろう。変化のおおい5月は過ぎ去って、もうすぐ夏至がやってくる。



4月9日

展示の2日目。コーヒーを出店してくださっている樹さんと、お客さんがいない時間帯にぽつぽつお話ができた。開くかもしれないから、と思って本をいつも持ち歩くから鞄が重いと言う。樹さんは4冊、わたしは3冊、今日は持って来ていた。開く余裕がないくらいお客さんが来てくださってありがたい限りである。すきなものについてそれをいかにすきだと語ることは得意か、という質問をして樹さんのお話をききそびれてしまったので明日はここから聞こうと思う。前に樹さんが貸してくれた本をわたしはまだ返さずに、ひそやかに持っている。


4月11日

展示の4日目、ゆったりな月曜日。会場で仲西森奈『思い思いにアンカーを打つ』

ピアノの椅子に横になりながら、読んだ。校外学習の中学生たちが外で歩いていて、いやそうに集合写真を撮ったりしていた。制服がぱりぱりしていてきれいだったからきっと一年生だ。それにまだ制服のほうも緊張していた。この会場は外がよく見えるわけではない。だからそれでも流れ込んでくるものを、ちゃんと見ていたいと思う。

書物そのものの手触り、めくり触りがたまらない。規模感も。一気に読んでしまう。これが20冊、20年。積み重ねていくことよりもあたらしいものへの取り替え、が増えている中で、なんて格好いいんだろう、としばらく呆然としながら、ただぼうっとすることをしていた。お客さんが上がって来てくださり、お茶を沸かす。ぼうっと過ごした時間など、まるでなかったみたいに。

劇団ロロ「ロマンティックコメディ」のチケットを予約する。特設ページの三浦さんのコメントが何度読んでも、いつ読んでもよくて、毎日ひらいている。以下引用。


   愛とか恋とは違う形でロマンティックを見つけたい。

   たとえばなんだろう。たとえば、読みかけの本を閉じて顔を上げたときとか。

   本を読む前の冬の日差しと、本の中の夏の景色と、本を閉じたあとに見上げた夜空が、

   混ざり合うほんの一瞬。

   そういう瞬間をたくさん集めて、物語を満たしたい。 

   (http://loloweb.jp/Romantic/)


4月12日

連日流れてくるリアーナのマタニティライフ is so cool。


4月13日

目を覚ましてまず、あ、会場を開けなきゃと思ったのだけれど展示は昨日、無事に終わった。博物館の方に挨拶をして会場へ上がる。照明を付けて、窓を開け放つ。草花の様子を見ながら花瓶の水を変える。額の表面のよごれをチェックしながら、その日最初に愛咲子ちゃんの作品を見ていくひととなる。ほんの少しの間、わたしのなかに確かに流れた時間。この春の時間。

アリ・スミス『春』にしょっぱなからくらくらしている。昨日までできていなかったことをどんどかとやっていかないといけない。鞄に本を入れて今日も出かける。


4月14日

やってきた台車のバック中の音がかわいくて、駐車のとき無駄に何度もバックしてみる。

國分功一郎『暇と退屈の倫理学』を読む。


4月20日

長岡からの帰り道、海に寄る。車の中でハンナ・アーレント『人間の条件』

難しいものを時間をかけて読むような、1冊を読むために他の本を開きながら進めるような過程が今は必要である。読み終わることを最終地点にしない読書。


4月23日

引っ越し前最後にこの家で読んだのは、太宰の『グッド・バイ』だった。タイトルはいまの状況に似合いすぎているが、内容は愉快でげらげら笑える。ブツっと切れてしまうところも面白い。太宰はずっと自身を強くツッコんでくれる存在を待っていたのかもしれない。文字通り、人生をかけてボケ続けていたのかもしれないなどと思う。引っ越し前日にこんなに荷物が残っていることなど、ボケ以外の何でもない。


4月27日

佐藤正午『月の満ち欠け』

ずっと前にあるひとが、宝物箱を見せるみたいにこの作品のことを教えてくれた。わたしのタイミングが来たらその時に読む、と伝えてもう5年くらい経つ。タイミングは突然やってきた。昨日訪れた本屋さんでばっちり目があって、手に取った。少しずつ、でも確かに何かが遠さがる気配がする。向こうで枝垂れ桜が揺れている。



3月19日

実家には玄関が4つある。

中身は繋がっていたり、場所によっては入れなかったりする。人が住むのにはあまり向いていないが、楽しい造りではある。保育園に行っていた頃は、家というのは時間帯によって姿形が変わると思っていた。そのくらい、同じはずなのに違って見えていた。あと、魔女の部屋みたいなところでよく夜にお茶を飲んでいたが、それがおばあちゃんだったのかおじいちゃんだったのか、どうしても思い出せない。どちらでもない気がしている。夜をあまり明るくない照明で過ごしたいと思っているのは、その部屋の薄暗さをずっと覚えているからだ。

重大なことを忘れているのではないか、という気になって歩きながらあれこれ考えていたら、こんなことを思い出した。

しばらく読むことがうまく進んでいない。それは今読むにふさわしい本を手に取っていないか、本を読めるような精神状態じゃないか、はたまた、まだ気付けていないどこかの不調か。以前は本を読めなくなると焦ってしまって、益々何も読めなくなる状態が続く、というようだったが、こういう風に一歩外から要因を捉えられるようになってわたしは随分楽になった。本を読めていれば大丈夫だ、と思っていたけれどそうではなくて、本を読めてなくても大丈夫だ、と思えるようになったから。

展示の準備をガシガシやらないといけない。気持ちと行動は簡単にばらばらになってしまう。


3月20日

朝からワクチン接種へいく。父とゆっくり話す。家族の中でわたし以外はみんなキュートの種をもっている。母はチャーミングで兄はスイートで、父はラブリーである。どうしたってわたしがかわいいひとをすきになってしまうのは、家族の影響が大きい。

LIGHT さんの展示へいく。そこに扉あったっけ、というようなところをトントンとノックされた気がした。心地よくなって色々なことが許すのなら、いつまででも見ていたいと思った。見る、という行為はすごい。考えるに宿るいろんな工程を飛ばして、遠くまで連れて行ってくれる。

少しでも手が空くと『罪と罰』を読んでいるのだが、これほど隙間読書に向かない作品もないと思う。物語に入るような状況にいない時でもページを開けば、たちまち両腕を引っ張られる。心底困っているから滑稽に思えてくる。暗さと強さは矛盾しない。読み終えてしまったらわたしは『罪と罰』以後、をいきていくことになる。道中にいたいから、なるべくゆっくり読みたい。先を知りたくて、同じだけまだ知りたくない。

柳美里『JR高田馬場駅戸山口』

ほとんど全編一人称の語り口調で、ぶったまげた。少なくとも副作用で寝込んでいる時に手に取る類の一冊ではない。語り口調に忍者ハットリくんが垣間見えて、しんどいところに面白さが差し込まれるから、面白くて、尚しんどい。リアルなのに遠く、不気味なのにやさしい。本当のことが書かれている、と強く感じる。文学におけるほんとう、とはどういう状態を指すのかという問題は置いておいて、少なくともごまかしのようなものがなく、真っ当に怒りが置かれている。作品が怒りを帯びているのではなく、作中に怒りが置かれている。読み手から怒りまで少し距離があるから余計によく見える。柳さんが保坂さんみたいに小説作品ではなく〈小説について〉書いたら、どんな論が展開されるのだろう、と思う。


3月21日

ふわふわとした頭で『罪と罰』上巻を読み終わる。最後はたたみこまれるように、バタバタと音を立てて去っていった。なんだこれ、初めて噛む味と食感がする。どうなるのかわからないのと、知らないのによくわかるがきりきり同居して緊張する。おもろくて、めちゃくちゃ気持ち悪い。すごい、身体がバリバリしてくる。もう頭や目で読むというより、身体で読んでいる。全身読書。これだから文学はたまらない。最も静かな方法でこちらを興奮させる。


3月24日

書類をつくる。全身はどうしても裸足がよかったので、雨上がりにびちゃびちゃになりながら屋上で撮ってもらう。字をうつくしく書こうとしすぎると力むので、さらさらさらと書いていく。かなり怪しくなったが、何回か見直して、そのまま封をして出す。ここもう少し書き直せる、と思う時は書き直さない。一番最初に出てきたものの強度が最も高いはずだから。

益田ミリと千葉雅也と川上未映子の新刊、それから町屋良平『ほんのこども』、オルナ・ドーナト『母親になって後悔してる』、仲西さんの新著、『10 年目の手記』、上野先生の新著、アリ・スミス『春』ここらへんがほしい。展示が始まる前に本屋さんへいく余裕はあるだろうか。アリ・スミス『冬』を読まずして、冬は過ぎてしまった。


3月25日

古川日出男『ゴッドスター』

痺れた。つい最近読んだ柳美里『JR高田馬場駅戸山口』にも通ずる口語体の鬼一人語りが、最初は受け入れ難いのに段々それくらいやりすぎていなければ物足りなくなっていく。何かを受け入れていくとき、受け入れがたければがたい分だけ、受け止めたときの心地よさは大きくなる。わからない、がわかった時は多少の嬉しさをどうしてもともなってしまう。普通に生きていたら遭遇しないであろうものが、何の制御もされずにただあるべき状態として存在しているということの真っ当さが、ありがたくなってくる。小説はそれをやろうとすることによく適したかたち、だと思う。

わかりやすさはある程度は大切だ。でも、言いたいことがわかりやすいとは限らない。だから個人の主張とそれをどこまで濾過するか、みたいな問題は気を使うし難しい。そのまんまなものは、どのくらいそのままに、どの程度手を加えるのか。小説という問題の果てのなさ。


3月26日

ネトストしているひとのツイートが今日も面白い。どこかであるある、と思っているのに特に口に出さないものをバシッと言われると、くらくらする。


3月28日

眠る前に岸政彦『東京の生活史』を開く。やっぱり2021年は東京の年だったのだと思う。


3月29日

ひろちゃんが部屋の掃除をしていたので、わたしも本の整理を少しだけする。新居には不死鳥の騎士団は持っていくことにして、炎のゴブレットは実家の本棚に戻すことにした。ひろちゃんに貸したりあげたりした本はどれも大切に思ってきたものたちで、それらのことを思えば多少の困難には負けずにいられる。きっとひろちゃんのこともまもってくれる。


3月31日

黄晰暎『たそがれ』

小説でしかできない方法で、ある者とある者が会話をする。再会することなく、確かにすれ違う。近年の韓国文学ブームの中でもあまりこの作品の紹介は見かけたことがないが、もしかして良すぎて誰も紹介しないのかもしれない。とんでもない作品である。絶望した大切なひとへ、前を向いて歩こうなどと果たして言えるだろうか。その時ことばは、どんな姿をしているのだろうか。

韓国文学を読んだことのない方へ導入として何かおすすめをするとしたら、わたしはこの『たそがれ』と、ム・ジョンヒョク『楽器たちの図書館』、それからイ・スラ『日刊イ・スラ 私たちのあいだの話』の3冊を強く押したい。前者から韓国現代社会の痛みと祈りに触れる中編小説、詩のようなうつくしい文体が織りなす短編集、読んでいる間中ドキドキできる辛辣であついエッセイ集である。

遠野遥『教育』

ずっと読みたかったけどまだ買っていなくて、整理した時に掲載号の文學を発見したのでさっそく読む。奇抜な設定よりも正しさ、について真っ当に問うていて、価値観がわしわし揺さぶられるのが気持ちいい。主人公はある世界での正しさに対してのみ正しく、少しでも当たる角度を変えるとみにくく見える。何か一つを強く信仰することができたなら、恐れる対象は減るのだろうか。自分で物事の判断ができなくなったら、そのことにはどのように気付けるのだろうか。


4月2日

移動中に金井美恵子『岸辺のない海』

全ページに付箋を貼りたくなる。そういう時はどこにも貼らないようにしている。初めて金井さんの小説を読んだが、翻訳されている作品みたいである。小説の中に小説の話が出てくるような作品は三度も四度もおいしい。


4月3日

うーんうーんと夜中まで作業していたら、愛咲子ちゃんも起きているようで笑ってしまう。きっと暗室で酸欠になりながら奮闘している。わたしももう少しやろうと思う。時刻は4時。詩人のマーサ・ナカムラさんが前におっしゃっていた「ことばがひからない」、まさにこの状態。ひからない。でもわたしは諦めてなどやらない。


4月4日

区役所で書類があがるのを待っている時に、植本一子『台風一過』

植本さんやイ・ランさんみたいなひとは、〈赤裸々だ〉と評されていることが多いが物事は文章として書かれてしまった時点で、現実とは切り離される。開けっぴろげだから真実味が高まるかといえばそうでもなく、作り込まれているからこそリアルなこともある。全部を書くことはどうしてもできないものだと、わたしは思う。書き方や書かれていることで書き手の像を思い浮かべてしまいがちだから、空想像を押し付けずにできるだけクリーンに読みたい。書き手と書かれたものは一致しているから、どうしたって距離が生じる。奇妙でおもしろい関係。わたし、とこれはわたしではない、が鬩ぎ合う場所。一方だけが勝つことのない地点。

ひらかなかったフリージアの小さなつぼみを整理する。倖田來未の唯一持っていたCDは「恋のつぼみ」だった。ひらがななのがいい。木苺を生ける。


4月5日

目と鼻の先に展示の初日がある。



3月1日

年中頭痛には悩まされているが、腹痛でせつない思いをすることは数えるほどしかない。今日はその数少ない日でどうしてか、ドストエフスキー『罪と罰』は今だ、という気になって開いてみる。

10月の展示にきてくれた方々と少しは本の話ができたのだが、その中でふたりの方がこの作品の話をしていた。ひとりは難しいし登場人物が多くて読めない、と。もうひとりは時間を忘れて気付いたら日の光が差し込んでいて朝だった、あらゆる作品のなかで自分にとって最も重要なもののひとつだ、とおっしゃっていた。

開いてみると、大変湿っている。目を背けたくなるような圧倒的めいた何か、がどこまで深いのか分からずに広がっている。ただ、どうしてこんなに以前に書かれたものがこうも立体的にわかる、のか、というよりは、この時代の苦悩が今なお引き続いているのか、という感覚になる。つまり、超個人的な話は時代をも超える普遍性を持つ。やっぱりそう。

ハムレットを初めて読んだ時にぶったまげた感じや、漱石を読んでいる時に起こる痙攣みたいなものの予感を感じている。焦らない読書にしたい。


3月2日

今日も『罪と罰』

早くもきしょい文体に気持ちよさを感じ始めている気がする。勢いをつけて読みたくなるので、なるべくゆっくり読もうと思う。ロシアの寒い風が吹き付けている。身をよじることすらできない。

友人からのラインの返事が「まさや本出しすぎ」でなんか今日水曜日っぽいな、と思ったら水曜日だった。まさやとは千葉雅也氏のことである。


3月3日

TBSラジオ・OVER THE SUN エピソード74〈わたし、沖に出てみるね。〉を聞いていたら運転していたのに涙が溢れて、そのままわんわん泣く。泣くことは毎日泣いていた中学生のころに得意になってしまった。今でもどこでも泣いてしまうのは、そのころの態度が大きく関わっていると思う。でもただの泣き虫ではなく、わたしは闘うためによく泣いた。だから今でも泣き止む頃には戦い始める。

スーさんは沖に出ることを選んだミカさんに、彼女にしかできないやり方でことばを尽くす。番組最後のミカさんの「オーバー」という一言がいつもと変わらずあたかくて、また泣いてしまう。

いてもたってもいられず、ヘミングウェイの『老人と海』を買いに行き、さっそく開く。わたしも沖へ出ることにした。この春に。そして今日、10 年前の推しの渡米が発表された。何かを変える時は時間がいつもよりスピードを増して過ぎてゆくものだけど、今日の夜のことは忘れないでいられるような気がする。

目を背けることの限界だ、と思って今本当にしなくてはいけないものに取り掛かる。「逃げるから辛い」と2020年9月の愛咲子ちゃんの展示のことばを思い出す。その通りだ。戦え、いいから。


3月4日

藤本和子『塩を食う女たち』を読み始める。

藤本さんの『ブルースだってただの唄』はどうしようもない時に読んで、これまたわんわんと泣いた一冊だ。閉店間際のロイヤルホストで、ひとりで。何かあったときにはここへ戻ってくることができる、というお守りみたいで、心の奥底で抱きしめ続けたいと思っている大好きな、稀有な一冊である。だから余計に『塩を~』には手を伸ばせずにいた。のだが、最近はもうとにかく一行読んでみる、という風に読み始めのハードルはないくらいに低くしている。自分にとって良いものはタイミングを選ばないだろうと、読み始めたらそこにすっぽりとはまるだろうと、とにかくいいから開いてみる。取り掛かりのその感じを大切にしている。

今回もぴったりと何かが揃ったように、瞬く間に没入した。涙を堪えようともせずに、だばだば溢れるままに、ただ文字を追いかける。焦らない。先を急がない。呼吸を忘れない。ただただ身体に任せて行を追う。色も匂いも空気も時間も人も、書かれていることに触れることは決してできない。だからこそ、ここに書かれているもの、書こうとされたものにわたしは今触れている、と確信し、同じようにことばたちがわたしを触っている、とも思う。こんな風に息をしていることばを、わたしはまだ多くは知らない。


3月5日

ずっと訪ねてみたかった本屋さんで、笹川諒『水の聖歌隊』、チェ・イヌン『広場』、桑原史成『報道写真家』、チョボスキー『ウォールフラワー』、八島太郎『からすたろう』を買う。『からすたろう』という絵本は以前から探していて、ここで出会うための今日までの2年間だったの、と感じた運命を丸ごと味わいながら読んだ。静かな作品ほど、すぐ近くに大きな音が隠れていることをわたしはもう知っている。読書メーターの感想に「えほん、おもろ~」と書く。

大阪から京都に向かう特急車の中で『広場』を読み始める。本当は『罪と罰』をいくつもりだったのに忘れてきてしまった。

ある二つの分断、その渦中にいるものはどちらにも属さないことで、いずれも選べなくなってしまうのかもしれない。だって、所属の外に飛び出たら、見えなかったところまで見えるから。偽って平穏を選ぶのか、叩かれても真理を抱きしめるのか。それほど価値ある平穏なのか。ほんとうにそれは真理なのか。わからないからではなく、わかったと思うから人は揺らぐのかもしれない。

阪急線で『広場』を読み終わる。土曜日に出社していたらしい会社員3人の話をこっそり聞く。若手社員の話をずっとしていた。窓から眺めた景色が今日は何も傷ついていないわたしを、慰めてくれた。

新宿南口のことを考えながら西の街をよく歩いて、いろんな関西弁を聞いた。四角い角が丸まっているようにやわらかい時もあれば、剥き出しの角が鋭利に飛び出る時もあって西のことばは深いとしたら、東のことばは広いかもしれない。

ここにはもう梅が咲いていた。


3月6日

古い友人が落ち込むことがあったからエッセイを読んだよ、と言ってくれて、くらい気分の時にこの場所を思い出してくれたことを嬉しく思う。すきなひとが幸せな時はそのまま、その幸せを思い切り噛み締めてほしい。しんどい時に、ひとりぼっちだと感じる時に、疲れてとても頑張れそうにない時に、思い出してもらえるよう場所でありたいと改めて思う。そしてわたしはそういう時にこそ、あなたの一番近くにいるとこれからも言い続けていきたい。

ひろちゃんからもらった RIVERSIDE READING CLUB のブックカバーをベル・フックス『フェミニズムはみんなのもの』にかけて読み始める。出だしから痺れる。誰にでもわかることばで、まだ誰一人これだ、とは言ってくれなかったことが展開されていく。


3月7日

魂も思考の方向性も見た目も徹底された無敵ギャルこと、あおちゃんと電話で少し話す。ものの4秒でみるみる元気になる。ギャルが強いのではない。ギャルは他人を強くするのである。あおちゃん、ありがとう。


3月9日

ベル・ブックス『フェミニズムはみんなのもの』をごりごり読んで眠ったら、通り魔に刺される夢を見て5時頃目を覚ます。ふっ、と一瞬通り過ぎたその人は片手に包丁を持っていて、わたしの脇腹に突き刺して、そのまま去っていった。痛くないはずなのにそこが痛んで、立っていられなくなるのに周りには誰もいなくて、沈黙がそこにあって、わたしだけがその場にいた。夢だと気づくのに時間はかからなかったがしばらく夢の中で、何が起きたのかを考えていた。「女性だから」誰かに殺され、危険に脅かされ、抑圧され、埋められる。Twitterを開くとウィメンズマーチの様子がいろんなところに上がっている。

フックスが言うフェミニズムの定義はこうだ。〈性にもとづく差別や搾取や抑圧をなくす運動のこと〉。わたしが最初に出会ったフェミニズムは、上野千鶴子というひとのことばだった。

今日もフックスを読む。兄は最近見ていない間に天竺鼠の川原さんに瓜二つになっていた。隣にいない瀬下さんが見えるくらいに似ている。


3日10日

うまく読めなくて開いては閉じる。書きものも一向に進まない。何も読めない時でもこれだけはリハビリみたいに読めるという本を、開こうという気にもならない。焦っていることと不安なことがあって、それらにこころの大部分が引っ張られている。だがこのしんどさは、自分の動き方次第で多分軽減できる。それでも動けない。どうしても。どうしようもない。どうしよう。

ひろちゃんが前にくれた手作りのしおりを見て元気を出す。


3月11日

黙祷の時間帯は社内にいて、この会社で黙祷するのはもう最後だった。

飴屋法水『ブルーシート』を、いとうせいこう『想像ラジオ』を、柳美里『ある晴れた日に』を、イェリネク『光のない』を、そこから先はもう思い出そうとすることはやめようと思った。震災後文学、というものが成立してしまう時代をいきている。母親とゆっくり話をした。


3月12日

金沢にいた。引っ越したら大学生のわたしに長島有里枝を教えてくれたひとへ、数年ぶりに連絡しようと思う。泉鏡花と古川日出男と中上健次の小説を買って、なんとなくこれらを読み出すのはずいぶん先になりそうだと思う。


3月16日

アニー・ディラード『本を書く』を読み終わると、愛咲子ちゃんが帰ってきた音がする。

この本は人生のあるころに、常に持ち歩きたいと願う一冊だ。わたしにとってはそれが今で、早速1ページ目を開いて再び読み出して、明日も鞄に入れようと思う。これから先、何度でも戻ってこられる場所がまた一つ増えた。いつにも増して不安定な現在に、こういう一冊にたどり着けたことは大きい。歯切れよく進んでいく語り口調が鮮やかで、あまりに眩しい。

格好良さとは、格好なんか付けようとしない姿勢にしか宿らないのではないだろうか。


 今みたいによく本を読むようになったのは17歳くらいからで、わたしは本の虫というにはあまりに程遠い。それに小学校の頃に戻れたとしても昼休みにはドッジボールに明け暮れるだろうし、高学年の階に行って好きな子を追いかけ回すだろうし、パソコンでのメールにばかり夢中になって寝坊し、課題本を読まずにでたらめに読書感想文を書き上げるだろうと思う。だからこそ、だ。何かを読むという行為は長い時間をかけてわたしの生活に入ってきて、段々と定着していった。

 わたしは心の底から好きなものについて話をすることが、得意じゃない。これはとても悲しいことの一つだと思っているのだが、〈あまりにも面白い〉や〈これが大好きだ〉を超えて、それがどのように面白いのか、それをどのように好きかを噛み砕くことは、大変骨の折れる作業なのだ。それも、自分の気持ちが強ければ強いほどに、だ。ただ大好きだ、と言うにはこぼれてしまうものが多過ぎて、かと言ってその一つ一つにぴったりと合う表現を授けられるほどの豊富にことばのカードを、今はまだ持っていない。 

 そこで、つたない本の話をここでしたいと思ったのである。本の話をわたしは、もっともっとしたいのだ。これを読んでくれている方でもしもお会いすることができる時には、ぜひ何を読んでいるかということよりも、それがどうあなたの心を打ったのか、どう心に残っているのか、そんなお話ができたら嬉しいと思う。


2月19日

吉増剛造『詩とは何か』を読む。終盤に差し掛かって、何にももたない奴こそいい詩を書ける、的な論の展開に白目を向く。ここにいるたった一人の自己にこだわっていたら、それより遠くへは行けないということであり、詩人のナルキズムに宿る独特の強さを思った。

それから、信田さよこ・上間陽子『言葉を失ったあとで』を読む。付箋だらけになる。めちゃくちゃ話ができるひとは、やっぱり聞くことが秀でて上手い。このところ浅くしかできなかった呼吸が、やっと少しは深くできそうで安心する。わたしにとっての「このところ」は5日間くらい、「ここ最近」は1週間くらいである。あなたが定義する最近は、どのくらいなのだろう。


2月20日

休日は目が覚めたらベッドの中で好きなだけ本を読める。今朝は矢川澄子訳の『若草物語』を読んだ。ジョーとローリーが初めてふたりっきりで踊るところで、グレタ版の映画を思い出して泣きたくなる。

本屋さんに行きたくて雪が降る中、バスに乗る。入り口の扉のすぐ後ろの席。一度閉まった扉がまた開いたので顔を上げると、前方からひとりの人が走ってくる。乗れてよかった。車内でそのひととわたしだけが傘を持っていなかった。

欲しいと思っていた本は、一冊はあってもう一冊はなかった。本屋さんで買いたかったけれどどこも在庫切れなので、しょうがないからアマゾンで頼む。火曜日に届く。書店を歩いていると目があった、菅啓次郎『本は読めないものだから心配するな』も買う。すぐ読む。ありったけの要素を机の上に並べてどこまで話が広がるのだろうと思ったら、このひともずっと同じ話をしている。あまりに多岐にわたるものを使いながら、ひとつの話をずっとしている。どんなツッコミと見せてくれるのだろうと思っていたが呆気なく裏切られた。一直線にボケ続けている。見事である。

前からずっと行きたかった本屋に行ってきたと言うひろちゃんの話を聞く。あんまり大事そうに話すから、その横顔を見れたことが嬉しかった。今のひろちゃんはジェネット・ウィンターソンに首ったけである。


2月21日

昨日頼んだ本がもう届く。ソン・アラム『大邱の夜 ソウルの夜』、井戸川射子『する、されるユートピア』2冊ともすぐに開けてすぐに読み始める。

ひとりきりの夜に立ちはだかる暗闇は深い。それは実際にそうある以上に深く、暗く見えるのかもしれない。負けないで、何に?逃げないで、何から?

GEZAN《東京》のこの歌詞を思い出して、ずっと耳に流れている。今も。

    |誰に勝たなくても、何にも負けてないその日までつづけよう


2月22日

よくわからんもの、に触れたいと思い、ひとに出会っていないなと思う。

池田晶子『考える人』この人はバチバチにツッコんでいる。そうか世界はボケで哲学とはツッコミなのか、という工夫のない見方に対して待て待て、と突っ込むその道筋こそ、哲学がやろうとしてきたことなのかもしれない。

『若草物語』の続き。3番目のベスがローリーのおじいちゃんと仲良くなるあたりまで。まだまだ序盤、これはゆっくりと惜しむように読んでいきたい。冬の間に読み切りたいと思っていたけれど、次の季節になってもいいのかもしれない。


2月23日

キム・ホンビ『女の答えはピッチにある』

ガッツに溢れた文章に触れたいと思って、発売日に買ってそのままになっていたこれに手を出す。チームメイトの誰々さんはどんなプレーが上手い、癖は何でどのような人だ、と言うのをずっと聞いていると、瞬く間にその人を好きになってしまう。ホンビさんのことばは、愉快に踊っている。だから日常の瞬間という瞬間に存在し続ける、え?と一瞬立ち止まってしまうような部分にも、ステップを踏みながらきちんと目を凝らす。これはすごいことだと思う。


2月24日

花を生けに行く。昨日の続きを読んですぐに眠ってしまう。調子が悪いのは身体を全然動かしていないのもあるなと思う。


2月25日

小説を書いている友人と話をした。そのひとはすきなひとについて、どんな場面で相手が何と言ったか、その一言がいかに自分のこころを刺したのかを聞かせてくれて嬉しかった。いつかわたしのこころを刺したことばも、彼女にはきいてもらいたいと思う。小説版ハリーポッターと金色のガッシュの話をした。才を持つもの/持たざる者の話になって、ハチクロのことを考えながら帰り道運転した。

教えてもらった漫画『ブルーピリオド』を読みながらお風呂に入る。芸大予備校に来ている人たちの描写が細かくて面白い。すきなものの面白さ、それを自分がすきだから面白いのか、別にそれをすきでなくてもそれ/その人はおもしろいのか、などについて考える。年始に愛咲子ちゃんとひろちゃんと夜の京大付近を歩きながらした話を思い出す。


2月26日

移動中にずっと、蓮見重彦『反日本語論』を読む。このくらいの読みづらさを今のわたしは求めていて、思いがけなくよく進んだ。

ハチ公前のデモに行く。今日見たものを忘れないなと思うけれど、そこまで自分は頼りにならないこともわかっているので、忘れていくのだとも素直に思う。でも忘れないだろうと感じたことは、それはそれで大切なのだとも思う。デモには大きなカメラを担いだ人がたくさんいる。本当に、たくさん。

SPBSへ行く。金井美恵子『岸辺のない海』、折口信夫『死者の書・口ぶえ』、柿内正午『プルーストを読む生活2』を買う。欲しいと思っている新刊がいくつも置いてあるわけだが、その本屋さんの選書を見て、全く買うつもりのなかった3冊を選んでいた。文鳥文庫がたくさん揃っていたので、愛咲子ちゃんとひろちゃんにそれぞれ選ぶ。

夜、紀伊國屋ホールでほりぶん「かたとき」。ロビーである芸人さんたちを見かけ、M1準々決勝のネタをしんどくなると見ていました、と伝えたかったけれどまさか話かけるわけにもいかず、こころの中でそう呟いた。

90分間、ほとんどずっと笑っていた。こういう風に笑うことを忘れていたなと言う感じに、笑うことを最近知った人のように、それはもうめちゃくちゃに笑った。隣の席だった方が始まる前に歌集を読んでいて、そのまた隣の方は見た目が鬼ギャルだった。ふたりとも大声で笑っていて、それにも勝手に嬉しくなった。前回又吉さんをみたのも紀伊國屋ホールで、その時は静かな芝居だったが今回はめちゃくちゃ大きな声を出してブチ切れていてそれはもう、たまらなかった。ワンピースの女性たちに又吉さんはよく似合う。決してその逆ではない。上田遥さんに釘付けになった。

笑えることがあって、同じように笑えないことが起きている。幸福に包まれたひとがいて、その隣に不幸せの真ん中に立っているひとがいる。


2月27日

目が覚めてすぐに、桜庭一樹『少女を埋める』を読む。

三章構成なのだが、一で表題作が終わったと思ったら、一で書かれていることの具体例みたいなものが二に出てきて驚く。すごいとか、いいとか、くるしいとか、わかるとか、やばいとか、そういう言葉を使わずに自分が感じたものをそのまま表そうとするけれどそれがどこまでも難しくて、今ことばは溢れているように見えるけれど、全くそんなことはないのだとまた思う。自分の考えを言い当てるようなことばはまだまだ遠く、全然足りないと思う。この足りなさの海でどう息継ぎして、どう長く泳ぐのか。母の感想が聞きたくなったので、次に帰った時に渡そうと思う。

昨日買った柿内さんのを少し読んで、詩を書く。


2月28日

バスに乗りながら、柿内正午『プルーストを読む生活2』を開くとふんふん、ふんふん、と心地よく進んでいき、あっという間に読み終えてしまう。昨年末に『失われた時を求めて 全一冊』を読んでプルーストの凄みに暫くの間ぶるぶると震えていたので、柿内さんの論ずるプルーストの凄さにわかる、わかると思うのだけれど、彼には彼だけの読書体験が、わたしにはわたしのそれがあるわけで、だから〈わかる〉など正確には成立しないわけだ。それなのに感じるこの〈わかる〉は言い換えたら何になるだろう。それを知っているの〈わかる〉とも、わたしもそう思っていたの〈わかる〉とも一致しない、わかる、はそれでもあると思っている。

誰かの日常に貼りついたものを読む心地よさを、とくとくと感じた。それを読んだからその人をわかるなんてことは全くないし、第一どのように書いていたとしても、書かれた時点でそれはその人の日常とは切り離されたまた別の一線になるのだと思う。もちろん日記は、生活に密接である。だからこそ、日記がそのまま日常なはずはないのだなどと思う。

高梨豊の作品集を読む。初めて見る東京ばかりが並んでいる。

千葉雅也『勉強の哲学』を再読する。二回目なのであとがきと解説を読んで、それから頭から読む。


記録 3

 マダガスカルジャスミンが咲いていた。ジャスミンとは少し違うマダガスカルジャスミン。マダガスカルだけでも、ジャスミンだけでも、マダガスカルジャスミンにはならない。


記録 2

 つまるところわたしは、愛咲子ちゃんという宇宙の目撃者なのです。



記録 1

 自分はなにかを書きたいのだ、と初めて気付いた帰り道は、雨上がりのコンクリートが歪んで見えた。水分を含んだ葉っぱの頭が重そうに湾曲していて、わたしは毎日通る道をひとり、歩いていた。視界に目を引くようなものは何もなかった。公園に誰かの家に、植木鉢。犬を散歩している人に、帰り道を急ぐ人に、重そうな鞄のほうに身体が傾いている人に、左折する車。いつでも見ていて、いつも見ていないようなものだった。

 それだから、見慣れた道が恐ろしいほど異なる表情を持っていることに気が付いた。時が、右方向にだけさらさらと流れていく様が見えた。いっ時も止まらずに。雨の過ぎ去った気配が充満していて、この先は心配なことなど何も起こらず、大切なひとたちが困り果てるようなこともなく、ひかり続けるような気がした。


 ひとりで始めることができてひとりで完結を迎えられるもの、誰かの助けを借りなくてもできるもの、でなくてはならなかった。どうしても。

 誰かに助けの手を差し伸べる時は決まってひどく緊張してしまって苦手だったし、誰かに助けて、と言うのはもっと苦手だったから。それまでいろんなチームに参加していて、それぞれの集団が心の底から大切だったのだけれど、大切に思えば思うほど、そもそもわたしは所属に向いていないのではないかと気付き始めてもいた。それなのに決してひとり、になりたいわけではなかった。

 書くことはわたしに、ひとりきりになることを要求する。

 頭で考えていることと、実際に文章で打っていることと、言葉で話していることはどれも別々で、今がどこなのかよくわからなくなる。その時、それ以上他の声を聞く余裕はない。こころ細くても、しょうがない。

 これほど面白いものは今のところないけれど、簡単だった時は一度もない。何度も読み返して目を凝らそうとする。すると目の前に集中が集まって先が見えなくなる。少し先を見ようとして、すぐそこにあるものへの注意がおざなりになる。ズルしようとして大怪我をする。それらしく綺麗にやろうとすると、醜くなる。うんざりしてくる。だからやろうと思う。

 ふと気付いた。わたしにとってはひとりであることが、最もあなたに近づける手段なのだ、と。ひとりであることは、誰かのことを考えることで、〈わたし〉の外の世界を思い続けることだ。ひとりになることは自分のことを考える答え合わせではなく、他者/世界への問い掛けだ。

 それに所属とは、一定の囲いから出ないことではなく、見えないほど遠くに行ってもそこにあなたがいることを忘れないことであるように、今は思う。

 そこにあなたがいてくれるから、わたしは何も恐れずにひとり、になることができるのだった。ひとり、はひとりではないから知ることができる のだと、知った。




はじまりはきこえますか? おわりはどんな瞬間ですか



 その人は、忘れっぽい。重要な話をしたことや何かで大笑いしたこと、まではちゃんと覚えていて、その詳細や具体を忘れているということがしばしばである。もちろん、過ぎたことを全く忘れているわけではないだろうがそれでも、あえて忘れっぽいと言い切りたい。

 我が同居人であるひろこちゃんのことだ。

 知り合いも同級生も友人も、想定できる他者との距離みたいなものを全く飛ばして、ひろこちゃんとわたしは一緒に暮らし始めた。気が付いたら冬が来ていた、という調子でひろこちゃんは気付いたら、わたしの人生に存在していた。趣味嗜好や苦手な食べ物などをほぼ一切知らずに、朝は寝起きの顔でおはようと言い合い、夜はいつまででも話をしてまた次の眠たい朝、おはようと言い合った。愛咲子ちゃんとは家を出る時間が結構離れているので、「おはよう」はひろこちゃんとだけ交わせる。

 一日経てば忘れてしまうようなことから、呪いみたいに残り続けることまで、とにかく話をした。繰り返しの話を新しい話を、いつもの場所で、もう行くことのない場所でいつまででもした。わたしの場所からひろこちゃんのいるところは遠く、話しているとより遠くへと行ける気がするのである。毎回そのことを噛み締めて、〈わからなさ〉にしみじみと驚く。そしてまた、これからも。

 鍵を置く音、真っ直ぐな視線、階段で本を読む横顔。生活を取り囲む瞬間には彼女の破片が至る所にあり、そのことに安堵する。同じ時を過ごせるときにも、一緒にいないときにも(むしろ不在こそ、存在を思い出させる重要な機能を担っているのだと思う)、わたしはひろこちゃんに勝手に、励まされている。そして忘れんぼうな彼女の奥底を射抜くようなものを、〈わからない〉も〈わすれる〉もないことにしないものを、どうやったら書けるだろうかと今夜も机に向かう。

 ひろこちゃん、こんな風にあなたはわたしの人生に存在してくれているのよ。知っていた?


どうしても起きたくない朝をどうにかこうにかする日はみんなある。わたしの今朝もそれだった。冬のコートを実家から持ってきた。もう羽織らないと思ういくつかのコートを誰かほしい人に譲ろう、そんなことを考えてコートをかける突っ張り棒を13回調整した、とてつもなく疲れて休憩、いま座ってこちらをかいている。もう羽織らないコートの一つにライダースジャケットがある。21歳の頃、梅雨前だったか初夏のよく晴れた日で、缶ポカリとカメラを片手に散歩をしているとフリーマーケットの簡易版を行っている通りに出た。そのまま見渡しながら歩いていたら服を出しているおじさんにあんた良いねと声をかけられた。おじさんは小洒落ていて薄黄色のポロシャツを黒いリーバイスデニムにタックインしていた。出していた服もなかなか良くて、その服にまつわる音楽と映画の話をしたことだけ覚えている。話の途中でそのおじさんからあげると渡されたのがライダースジャケットだった。似合うとくれたような気がしたけどかなり大きかった。だからたまに部屋で着てその日を思い出したりした。これを読んでもし気になった方がいらっしゃいましたら喜んで差し上げますので、contactからでもメールでも電話でも何でもお気軽にご連絡ください。ちなみにLEAD社のダブル、サイズはLLでだいぶ武骨で重厚な感じ。丈は短めだと思います。ポケットに入っていた2009年4月19日の清水フードでの買い物レシート付き。

斉藤和義のずっと好きだったんだぜが流れてきて、聴いていたら「俺たちのマドンナ」という言葉が耳に残る、快子さんの顔が頭に浮かんできた。

浮いたり沈んだり自ら潜ったり泳いだりしていたら、去っていった2021年の10月。11月はどんなひと月になるだろうか。

展示を機会に舞ちゃんと毎日の記録をはじめた。話せるときは毎日彼女と向き合う。彼女は毎日同じことを私に話してくれる。言葉や言い方、トーンや温度は毎日違えど、同じことを話してくれる。彼女はそれに気付いているだろうか。彼女が大切にしているものが変わらない限りはきっと毎日同じ話をし続けてくれるのだろう。その同じ話を毎晩きくことができるいまがとても幸せであると今日も思う。

そして唐突に1日1枚の舞ちゃんの記録もはじめた。わたしがここを離れると決めたのは少し前のことだったけれど、10月20日、そばにいれる今、今、彼女を撮らなければというどうしようもないくらいの衝動に突然駆られて、彼女の部屋に入ってリモート授業中の後ろ姿を撮った、そうしてはじまった1日1舞。なのだけど、それよりも前の10月2日、まだはっきりしっくり形容することができない特別で大切な人から「舞ちゃんを撮るのはどうなの」と言葉をかけてもらっていた。その一言がずっと残っていた。撮りはじめた今、その言葉は無事にすっと身体に溶けてくれた。カメラを向けているとき、舞ちゃんにはわたしはどう写っているのだろう。

あなたを知りたい、あなたと話したい、あなたを愛したいという気持ちを伝える方法は想像以上にたくさんあるのだと知る。写真もその一つにしっかり当てはまると強く思う。だから強くありたい。

とこれをメモに書きながら、エプロンにおやつに食べたチョコレートがついていることに気付く。今回はエプロンだったけれどお気に入りの薄い色の服ほどこういうことが起こりうる、なんでやん。

と、今日絶対に書こうと決めていたこと、舞ちゃんも同じことを思っていて、下のエッセイと完全にシンクロしている。

ちなみに、舞ちゃんはひとと横に並び、同じ景色を一緒にみたいひとで、わたしは対面しながらあなたの見ている景色を想像したいひと、今日はそんな話を少ししていた。

明日もいい日になりますように



 唐突なひとである。愛咲子ちゃんは。「1日1舞」を始めると言った時もすごい勢いで部屋に入ってきたかと思うともうシャッターを押していて、勢いを増して出て行った。彼女はいろんな種を並べたかと思うと、どかどかとそこら中を歩き回る。ぽこぽこと要素を浮かべながら話す。対照的にわたしはひとつの種の発酵を待ち、ある地点からなかなか動けずにいる。

 毎晩1枚、彼女はわたしを写す。カメラ越しに彼女を見つめる。短くない数秒の存在を知る。これまでのどれとも異なる対話が始まったように思う。どこかの瞬間で暴かれるのだろうか。誰にも見せまいとしてきた歪さは。ついに手放すことのできなかった憤りは。

 対面にいる彼女にわたしは、本当の話をどれくらい聞けるだろう。どう問えるだろう。早く渡って、と信号機の点滅がひとびとを急かしている。



 無鉄砲に外に向けてきた矢印がいざ自分に跳ね返ってきた時、何にも踊れなかった。言い訳のワルツも、ごまかしのポーズも、逃げのターンも。そもそもそんなものを覚えて我が城を守っている場合ではないことに、気付かせてもらった。こちらに向かって一直線に、ほんとうの矢印を向け続けてくれる者たちによって。


 借り物ではないステップを踏みたい。自分の足で。そのためにわかろうとし続けること、わかり合えないことを諦めないこと、そして、わかってもらおうと歩み寄ることは、手放さないと誓う。あなたが見上げたミルキーウェイに。


昨日は流行りの注射後のあれでずっと寝ていた。夜下に降りたら、同居人たちが身支度をしていたので尋ねると、これから京都に行くと柔らかく微笑み、そのまま出ていった。はじめてみるなんとも清々しい微笑みで、もう一生帰ってこないような、わからないけれど蒸発して出ていく人ってこんな感じなのだろうかと思う空気を醸していて、ひとりクスッとなりながら、上にベッドに戻ってまた寝た。翌日はそれなりに回復していたので2週ぶりに祖父母の家にいき、夜ご飯をいただいた。はじめて母親の幼少期の写真をみせてもらった。祖父が手焼きプリントをしたもの、写真のそばに祖父のひとことも添えられていた。娘と妻への愛がそれはそれはわかりにくく遠回しに記してあった。想像以上に祖父は不器用で繊細なひとで、そしてかわいらしい写真家だった

先般、東京から帰郷したバリスタで友人のコーヒーのイベントが行われていた。それは予定が長引いて行けなかったので当日出していたコーヒー豆を購入させてもらった。友人は東京で会った時よりもとてもいい顔をしていた。ヒゲも良い感じに伸びていた。寺尾のオールディーズなミスタードーナツで待ち合わせをしてハニーチュロを食べながらいろんな話をして、じゃあと別れた。

大人たちはよく、俺の仲間が~とか、仲間と久しぶりに会って~とか、仲間という言葉を使ってその人を表している。仲間ってどんな意味合いなのだろうとずっと思っていたのだけど今日はっきりと分かった。その友人がわたしにとっての仲間だ。本人に言うのはまだはずかしい。

家に帰宅したら舞ちゃんが先に帰っていたので、誘って購入したばかりの豆でコーヒーを飲んだ。香りは甘いけれど苦いビターチョコレートのような味、とってもおいしくてすぐに追いコーヒーを淹れた。2杯目を飲みながらやっすん先輩と東京にいる2人に会いたいねと今日も話した。会うために、いまはここで次を練る。今日は42度のお風呂に入り、洗い立て干したての寝具とパジャマに包まれて眠る。

夜23:13、あれ臭いなと思って部屋を見たら古い電球が断線して煙が出てた。なぜだか火元を触ってしまいがっつり火傷をしてしまいましたが火事にならなくて本当に良かったです。今日はもう電気使いません。

あっという間に展示の後半がはじまった。あっという間でもない。中休みの期間、舞ちゃんとああでもないこうでもないと毎日話して東京を思って、日記を書いてそれなりに一喜一憂しながら大事に過ごしていたと思う。実はわたしはここ数日ずっとおなかの調子が悪くて胃薬とともに生活していた。あまり調子が出せていなかったのだけど、今日暗室で作業していたらいつのまにか胃痛が消えていた。作業を終えても帰宅しても跡地についても胃痛がしなかった。胃痛がしないってこんなだったっけ。チーズバーガーってこんなにおいしかったんだ。食べれられる幸せをかみしめながらチーズバーガーを食べた。舞ちゃんはエッグチーズバーガーを食べてミルクを飲んでいた。食べ終えた後、バーガーを包んでいた紙がどっかいったみたいなことをぼそっと言っていた。どういうことだろう。運転してくれてありがとう。

わたしたちは展示会期中、その日が終わるごとに写真を撮っている。初日、2日目、3日目とびっくりするくらい毎日顔が違う。4日目を撮った今日は二人ともいままでになくいい顔をしていた。何かつっかえがひっかかりが取れたようなそんな顔。舞ちゃんはその写真を見てとても嬉しそうだったのでよかった。

展示”東京”はあと2日。ごちゃごちゃした雑多な東京を想像すると、わたしたちのこの展示は対極にある。それでもこれがわたしたちの東京で、ここにしかない東京の展示です。よろしくお願いいたします。

中休み初日。会期中にいただいた写真集をずっとみていた。まえにいただいた写真集もみていた。自分で購入した写真集もみていた。

展示のお知らせ


来る2021年10月1日より、今夏に製作した 小冊子”東京” にまつわる言葉と写真の展示を行います。

東京という街なのか、状況なのか、状態なのかよくわからない場所、わたしたちが眼差すその小片。

東京が持っている、生んでいる、編んでいる引力のようなものを少しでも感じてもらえたら幸いです。

今回の展示用に舞ちゃんは新しい短編を書き下ろしました。書いては消し、書いては消し、時に頭をかきながら硬い床で寝ながら、静かに叫びながら彼女は東京を書いていました。それは地面にしっかりと足を付けて動かないような硬い言葉が並びます。舞ちゃんの言葉には揺るがない何かがあります。それを彼女自身も恐れていながらも楽しんでいるそんな印象をそばでわたしは受けます。ちなみに書いているときの舞ちゃんは目がいつもの5倍は小さくなっています。あと髪の毛がぼさぼさでとても気難しそうにみえますが、そんなことはなく彼女はとても魅力的な人です。

東京の写真は初めて暗室に入り、フィルム現像から自分で行ったものです。ネガがとても濃く仕上がり、プリントに苦戦しましたが、それも含めて今回展示する写真もとても思入れがあり大切です。正直まだまだ決して良い出来とは言い難いものです。東京を撮っているときもわたしはここを撮ってよいのだろうかなどとそんなことを考えていました。そんな気持ちが写真ににじみ出ている気がします。それも含めていまのわたしの作品です。

展示の機会をくださった関係者の方、いつも見守ってくださる皆様には大変感謝しております。

20代半ばの若輩者が編む”東京”をあなたの視点で望んでいただけたら嬉しいです。


わたしたちが製作したZINE「東京」にまつわる展示を行います。場所は、ギャラリー跡地 旧BOOKS f3です。



   Chao we have a nice notice for you darling. We done our first work and will participate at the zine event to be hold from 14th to 17th in August. If you have an interesting for, text us please. We tell you the detail, thanks for your reading. Gn



 ある夜、わたしたちは何か特別なものを共有していた。夏めく街を彷徨うように並んで歩いていた時のことで、なんともないような顔をしてその瞬間たちはやってきた。それから、この大きな主語で語ってみることを決めた。今いるこの場所から、今のわたしたちで。東京。

 瞬間とはずるいもので、あ、と思っている間に移り変わってしまう。あ、と思った瞬間にはもう、そのあ、と思った瞬間は過ぎ去っている。だから我々には、今/この瞬間だけがある。その連鎖がどこまでも続く。しかもどうにも大変なことに、人間一人ひとりがどうにか自分で、自分の瞬間を掴んでいく他ない。わたしたちはそれぞれのまま、でもその夜に共有した何かを確かに持ち続けたまま、幾つかの瞬間を編んだ。東京。

 掴んだのはその人からこぼれ落ちたほんものの言葉だった。(08.2021)




こちらの冊子は、2021年9月1日より9月14日までの期間、 "fufufuのZINE" 様のオンラインショップにてご購入いただけます。また今後イベントや書店様での取り扱いが決まり次第お知らせいたします。




母と休みがたまたま合ったので、一緒に海辺でお昼ご飯を食べた。そのあとあした誕生日だからとケーキを買いに行って、また同じ海辺に戻ってケーキを食べた。こんなしあわせなことがほかにあるか。

帰宅してから今日の日を思い返して久しぶりにボロボロ泣いた。忘れたくないけどたぶん忘れてしまうから、残しておく。そして思い返してまたボロボロと泣く。誕生日は家族に感謝する日なのだとこの年になってようやく知る。生まれてきてくれてありがとう?いやいや、産み育ててくれてわたしがありがとうと言いたいのですよ、おかあちゃん。

わたしはあなたのそんな日の話にふれてみたいのです。



 わたしはナンパをして生きてきた、と言っても過言ではない節がある。何かを感じたら、自分からいく。ひとと知り合うこと、だれかの持つ世界に触れることは、どこまでもわたしを魅了する。

 そしてあさこちゃんのことも、わたしから声を掛けた。数年会っていない・仲良くもなかった同級生からの突然の連絡に、丁寧にお返事を返してくれて会う時間をつくってくれる、彼女はそういうひとだった。

 そんな彼女の初めての個展は、一年前の秋のことである。今日みたいに天気がとびきり良い日曜日に、もう一人の同居人であるひろちゃんと伺った。どういうわけか、わたしはあの日のひろちゃんの様子をよく覚えている。

 展示を見に行った日の日記に、わたしはこのように記していた。


  あさこさんが書いていたこと。

  『苦しいから逃げてきた。でも逃げるから苦しいのかもしれない』と。

  そして『当たり前は当たり前じゃないという当たり前』ということを。   

  そこには、剥き出しのものがあった。それは彼女が自分で紡いだもの。きっと誰  

  にも見せずにもがいて、辿り着いた現在の場所。誰かのイミテーションじゃなく

  て、きちんと彼女のものだった。だから、強いと思った。そしてわたしはそれに

  触れることができてひどく、嬉しさを感じた。これは多分この先も忘れないよう

  な、そういうもの。

  彼女のことを知らないひとがみたら、この展示をどんな風に感じるんだろう。

  エフサンに立ち込めていた熱が、どうかどこまでも届くといい。

  届けていくちからがあさこさんにはある、わたしはそう思う。



 昨年のわたしはどういうわけか あさこさん と呼んでみている。高校生の頃は親しくなかったのにも関わらずあさこ、再会してからはあさちゃん、ここ最近はあっち。

 この先も様々な方法や角度で、彼女が大切にしている名前を、わたしも大切にしていきたいと思っている。

 愛が咲く子よ。



舞ちゃんとの出会いは16歳。妥協してなにも考えず入学したヘンテコな高校で出会った。(のちに判明したのだけど、舞ちゃんもなにも考えず適当に決めたらしい)当時の彼女は焦茶色のローファーに焦茶色のレザースクールバッグを肩に担いでいて、ぎりぎりアウトな赤毛ヘアのギャルだった。そのころに流行っていた前略プロフィールという今でいうSNSのようなツールで、わたしと同じ中学の同級生と舞ちゃんは入学前から仲良くしていたそうで、そんなつながりから入学したての頃は一緒のグループにいた。放課後は学校の玄関の端で購買のパン片手にギャル数人でくっちゃべっていた。ギャルのかけらもないわたしはそのグループを抜けるのには一カ月もかからず、いつの間にか舞ちゃんとの関わりは少なくなっていった。それでも廊下ですれ違ったりすると「ヤッホー」などと声をかけてくれる、そんなときでも舞ちゃんはいつでもギャル100%だった。夏は短いスカート、冬はキティちゃんのピンク色のブランケットを腰に巻いて長い廊下を歩いていたなあ。それから8年たって、ひょんなことから再会できた舞ちゃんはギャルのキの字もなく、どちらかといえばヨーダみたいな見てくれ(ファッション)になっていたのだった。だけど中身は変わらずギャルだった。そうしていま一緒に住んでいるわけなのだけど、根が生粋のギャルは心底明るいのでテンションについていけないときが多々あるのが同居を始めたころから変わらずに今も感じること。だけどわたしの素が暗いからというのもあるのかもしれません。もうひとり、ひろちゃんはわりといつもにこやかでわたしたちのオアシスなのは間違いありません。

そんな舞ちゃんと何か月か前に、はじめて遠出をした。ひろちゃんとは何度もしていたけれど舞ちゃんとは今回は初めてだった。何をするわけではなかったけれど、わたしが通う学校に連れていき、その街を歩いた。ただそれだけなのだけど、とてもよかったのだ。夏が始まりそうな風が吹いていて、梅雨が終わりそうな雨が降っていた。ぽつぽつと降る雨の中、喫茶店で温かいチャイを飲んだ。同級生で知り合いだった人が、友人となり、同居人となっている、わたしもあなたも気候も地球も感情も温度も関係性もなにもかもが日々少しづつあるいは劇的に変化していく。



 これまでの人生でラジオメールなるものを送ったことは、2回。そのうちの1回が先日番組内で読み上げられて、わ~~ん~と、ひとり喜んだ。星野源はかつてバナナムーンにハガキを送っていた。そして、わたしがかねてよりネトストさながら、記事や短編作品やツイートを追っているある人も、バナナムーンのハガキ職人だった。

 その人にまた会うことが叶ったら、わたしは現時点では書くことと話すことはやっぱり違うと考えているという話とかをしたいなとか、あなたが公開している作品の中で、恋人がボクシングを始めるお話を楽しく読んだことを伝えたいなとかいう、本当に小さな、フーンフーンと次々に頭の中を流れていくことに身を任せてお洗濯物を干そうとふと、窓の外を見たら、また、フェミサイド事件が起きていたことを知った。幸せそうということば。ヘイトクライム。ミソジニー。江南駅通り魔殺人事件。2016年の記憶。

 左を見れば他人の所有物を口に入れるという異常行為を行う人物が、ある地域の権力者であるという事実が横たわっており、右を見ればラムダ株の国内確認が恣意的に伏せられており、右肩上がりに感染者は増え続けている。

 わたしはそれらの一つ一つにどう戸惑い、怒ればいいのか。どんな顔で街を歩いたり本を読んだり、新たに出会う人と話をしたりすればいいのかもう、正直わからなくなってきている。

 だから、やめないのだ。日々そういうことが起きていることを、そして自分がそういうことに対して感じるものをないことにはせずに、わたしは書くことはやめないのだ、と。たとえ何も書けなくても書こう/考えようとすることだけは、わたしはやめない。そしてみんな、出会ったことがある人もない人も、この先もう二度と会うことがない人もまた明日会うことができる人も、もういない人もこれから存在する人も、みんな、みんなどうか、無事でいてほしい。(ま)





いつもはいない時間に、いつもはいないいつもの街に出たとき、わたしがいなくてもこの街も時間も進んでいくのだと思ったのであった。じゃあわたしもあなたもいてもいなくても良いのではないだろうかとか、そういうことではなくて、同じようにみんながそこを流れているということなのだ。



〜令和参年上期・選定図書〜

我本日読了、最好書手:滝口悠生「長い一日」。

表現広域、言語化巧、言表困難、情景豊、圧倒的生活、複数同時存在、多角的語手、眼差発見、他者慈、虚構現実往来。

小説可能性、拡張。


本読時間、誠、尊也。

下記、本年我読、重要作品群。暫定。


チョン・イヒョン「きみは知らない」、チョン・セラン「声をあげます」、津村記久子「君は永遠にそいつらより若い」、松田青子「男の子になりたかった女の子になりたかった女の子」、岸政彦・柴崎友香共著「大阪」、柴崎友香「ショートカット」「きょうのできごと」「知らなかった、と人々は言った」、長田弘「世界はうつくしいと」、益田ミリ「スナックキズツキ」、岡崎京子「東京ガールズブラボー」、ヤマシタトモコ「違国日記」、川上未映子「ウィステリアと三人の女たち」若松英輔「悲しみの流儀」、柳美里「ゴールドラッシュ」、円城塔「バナナ剥きには最適の日々」、キム・チョヨプ「わたしたちが光の速さで進めないなら」、パク・ソルメ「もう死んでいる十二人の女たちと」、バートランドラッセル「哲学入門」、アリ・スミス「五月」、ルシア・ベルリン「虎に噛まれて」、尾崎翠「初恋」


以上。





夜、ベランダに出た瞬間から足先が異常にかゆくなった。やさしくぽりぽり掻きながら、ぼーっとして過ごしていたのです。そろそろ寝ようと思って部屋に入ったら、足先だけ赤く腫れていて、蚊に10か所ほど刺されていました。

O型の夏の宿命から逃れられないなと悟った2021年の夏、下弦の月の夜のことでした。

ちなみに、同居人はみんな血液型が違います。みんなちゃんとそれっぽいです。


At the moment going out to the balcony, the tips of my toes was abnormally itchy. After zoning out with gentle scratch, I got bitten by mosquitoes in ten places.

It was the night of a old moon (Kagen no Tsuki) in summer  2021, I realized  there is no question of escape for summer fate of blood type :o. As a side note my flatmates all have different blood types, its suit each.   






初めて集まった夕暮れ時に、緊張していたのはわたしだけだった 


 同年代の友人たちと共同生活をしているんです、と告げると、大抵相手の目の色が変わる。へえ、え~~、ケンカとかあるの?食事は?人はふつうに呼んでる?部屋は?などなど、好奇な目が突如こちらに向いてきて、わたしは求められているような答えを面白く返すことができない、と何回聞かれても、誰に聞かれても思う。なんというか、わたしは、私たちは普通に営んでいると思っている。普通に生活をしているのだ。シンプルかつ複雑な日常について、あんまりうまく形容できずにいる。

 同居しているふたりとの関係はじゃんけんなら、グーチョキパーにそれぞれ綺麗に分かれるものだと思う。わたしはあいこ、というと同じものを出す印象が強いのだけれど、3つ全部が違くてもあいこになるということをふたりといると、よく思い出す。トリオで誰がだれかという話をしても大体それぞれ納得できる範囲で納まるし、誕生日の季節も異なり、強い/弱いものもなんとなくばらけている。決して遠いとも近いとも言い切れないこの感じを保持していることが、この共同生活の根幹にあると捉えている。

 おはようの大きさ、よく買う食材、今日がどんな日であったかを語る時の声のトーン、椅子の座り方、天気予報の信頼加減、部屋に漂うにおい、ものの並べ方、床でのだらけ方、家を出る時間、好きであろう時間帯、好んで聴いているもの、興味のある領域、直近で何に触れてどのように感じたのか、ある者のかく眉毛がとても美しいこと、ある者が好きな人について語る時の温度、どんなことを大切にしているのか、どんなものと出会ってきたのか、

 到底、書ききれない。誰かと同じ場所に住んでみるということは無数の瞬間を共有して、一緒にいない時にも自分のどこかにその人の存在があり続けることなのかもしれない。全部を覚えていることはできないから、わたしは全部を忘れないと思う。ともかく、ばらばらな私たちは幾つもの夜を祝って、過ぎゆく一瞬を惜しむ代わりにそれぞれが現在進行形で抱えている思いに名前を付けて、同じ風を受けて別々のことを考えながら生活をしている、とわたしは思っている。


 わたしは自室にテレビを置いているのだが、2ヶ月に1回くらいしか付けないので、全然活躍させてあげられていない。そんな中、先日わたしが家にいなかった時に、自室にテレビを置いていない同居人からテレビを見てもいいかなという連絡が届いた。ほとんど使わないテレビを見るたびにからうっすらと感じていた、「おそらくこのテレビをちゃんと生かしてあげることができるのは、わたしではない」ということを謎にはっきりと確信しながら、いいよ~んと返したのだが、テレビのリモコンが見当たらなかったそう。シンプルにごめんなさいと思う、同居人とテレビに対して。でもテレビは本体操作で見れたそうなので、良かった。ごめんねの先に大体いつも、なんとかなって良かったがあるから、人生からごめんなさいが中々減らない。

 わたしはリモコンを捨ててしまう癖があるので、今回のも捨ててしまっているのかもしれないが、ひとまずこれからリモコンを探す。

 というところで終わろうと思ったのだけれど、さっきまで聞いていたラジオで、本編でほぼ話していなかった人が申し分程度に次回の告知を小さな声でしていて、どうにもいたたまれないなあと思っていたら、本編が終わった瞬間に誰よりも饒舌に語り出して、なんやねんと思う。思うのだけれど、こういうことって結構あるよねと、今のわたしはもう知っている。



梅雨の晴れ間に吹いた風が わたしに 今日はもう このままずっとここにいたらいいよ、と言った それは怒っているようでも慰めているようでも あって そのどちらでもなかった あの風をわたしは わすれゆく 忘れたくないと思いながら もう わすれつつある いま 横にいる あさちゃんの足が 痒そう


The wind spoke to me 'you can stay here', that was neither angry nor comforting. I'm going to forget the wind. I forgot while I do not want to.  

Asachan's feet look itchy, she is next to me.





わたしの矢印は、どうやら外に向かって強く伸びていて


 わたしは、あなたのことを知りたいのです。

 あなたが忘れたいと願いながら、忘れられずにいるものについて聞きたい。あなたの抱く寂しさについて、聞きたい。あなたが決して誰にも話すまいと決めている経験について、そのことを思う時、あなたの中のどの部分がどのように鳴るのか、聞きたい。

 あなたが好む/好まない 幾つかの夜について。

 あなたが大切な人の名を口にする時の心の震えについて。

 あなたが誰かと交わした、あの最後の挨拶について。

 あなたの場所から見える景色を、わたしはここから想像したい。 


 わたしたちはどのように別々であるのかを、あらゆることを通して、もっと知りたい。

 別々だから関わり合えることを、いつまでもどこまでも、喜んでいたい。


 あらゆることは、言葉では到底追いつくことができない。

 だから、ことばでは表しきれないものに触れた時のことを、ずっと考え続けている。

 わたしはあなたのことを知りたいから、ここで、少し自分の話をしてみようと思う。



Steatment


 I have a big interest in you /  the world.

 I'd like to hear unforgettable things what you hope to forget, your own loneliness, which part in you sound when you think about experience you decide that you will never tell anyone.

 Some nights you prefer / not prefer.

 Vibrating of your heart when you speak a name of your loved one.

 The last greeting with somebody. 

 I want to imagine the view from your place, from hare.


 I'd like to know how you and i are separate through everything. 

 Becouse you and i are single being anytime, we could get involved with. I think that is absolutely valuable. 


 Anything cannot possibly put into words, so I contine thinking about time when I touched true things I cannot express by words. I need to find my voice.


 I want to know you / the world where you are, so I talk and think my own things, here.



たしかに存在していたたくさんの景色や心と、あの空気と匂いと柔らかい灯りは、姿なくともこの先も永遠にあり続けるのだと思います。あなたの心に写ったものの話を聴きたいです。

30 June 2021, a book store named f3 where the place is my first exhibition was closed. I think that lots views and hearts, air, smell and warming lights continue to exist forever without shape. I trust that is forever. I want to hear your talking what you saw in your heart.